03


昨夜の内に上がった雨は翌日、澄み渡る青空を連れてきた。
夕方には、昼間の明るさに包まれたままの空が綺麗に茜色のグラデーションを作り上げている。

でも、空がどんなに綺麗な空模様であったとしても今の僕の目には映らない。
今は一歩一歩近付いてくる彼の姿に僕の意識は捕らわれていた。

「隣、座ってもいいか?」

「…どうぞ」

これは一体どういう事だろうか。
いつもは手摺に凭れたまま、座席には座ろうとしない彼が。それも僕の隣に。

肩の触れそうになる距離に、どさりと隣に座った彼に、僕は混乱する。

込み上げてくる嬉しさに、恥ずかしさ。鳴り止まない鼓動が彼に聞こえてしまうんじゃないかと緊張する。

「そう身構えるな。誰もとって喰ったりはしねぇ」

緊張が伝わってしまったのか彼は眉を寄せて言う。

「そんなこと、僕は」

思ってないと首を横に振る。
でも、心の何処かで僕は彼になら食べられても良いと思った。

否定した僕に彼はそうかと表情を緩める。
途端、優しげに浮かべられた笑みに僕は息を詰まらせた。

初めて間近で見る笑顔に鼓動が跳ね、どきどきと胸が苦しくなる。更に彼はそれだけじゃなく、もっと僕を喜ばせるようなことを平然と口にした。

「昨日は助かった」

「え?」

そう言って彼は自分の鞄を開けるとその中から、僕には見慣れた折り畳み傘を取り出す。

「ぁ……」

「返す」

差し出されたその傘は昨日僕が彼に押し付けた物。
思わず返ってきた傘に僕はおずおずと手を出して受け取る。

「…返さなくても良かったのに」

「そうはいくかよ。お前の傘なのに」

きゅぅと胸が震える。
それはどういう意味?
彼には何の他意もない台詞でも僕の心は勘違いしそうになる。

僕を見下ろす瞳が優しくて…。







自ら近付いた距離に俺はひたすら緊張を押し隠し話し掛けた。
情けなく声が震えないように、アイツを怖がらせないように。格好悪さよりも嫌われないように。

普段している殴り合いよりも数倍、アイツに嫌われることの方が怖かった。

そうしてアイツの隣に座った俺は話すきっかけを作ってくれた傘を返す。初めは戸惑った様子だったが、受け取った傘を鞄の中にしまうとアイツはまた俺を見上げてふんわりと笑った。

「役に立ったなら良かった」

なんでそんなこと言う?
なんで俺に傘を貸した?
安堵した笑みを浮かべる姿に、その理由を聞いてみたい気がした。だが、俺にはそれよりももっと聞きたいことがあった。

「…お前、名前は?」

少し唐突過ぎたのか、アイツはきょとんと瞼を瞬かせる。その反応に俺はもう少し我慢するべきだったかと急く心に内心で舌打ちした。

「嫌なら答えなくても…」

取り繕うように言葉を重ねたその上へ、柔らかな声が被せられる。

「僕は衣川 日和(きぬかわ ひより)朱明高校の二年」

照れたように頬を赤くして答えたアイツは俺を見上げたまま続けた。

「貴方は?」

「…緒方 海星(おがた かいせい)青南高校の二ね…ん?…同い年?」

素で驚いた俺は目線を下げてまじまじとあどけないその顔を見つめる。
すると、視線の先でアイツは苦笑を浮かべた。

「うん。よく中学生に間違われたりするけど」

「っ、悪い」

「気にしないで」

それよりと話を続けようとしたアイツはあっと小さく声を漏らすと、心無しか表情を暗くする。

どうしたのかと俺が声をかけるよりも先にアナウンスが停車駅への到着を知らせた。

「僕、もう降りなきゃ」

「あ、あぁ…」

カタン、カタンと走る電車は無情にも別れを告げる。
なんだかいやに時間の流れを早く感じた。

「………」

途切れた会話に名残惜しさを感じて俺は感情の溢れるままに目の前にある少し跳ねた黒髪に手を伸ばす。

ふわりと壊れ物に触れるように優しく触れて、そっと梳く。
びくりと肩を震わせただけで拒否しない姿にほっと息を吐いて、胸を温かくさせながら俺は告げた。

「明日…、明日も同じ電車に乗れよ」

「…っ…うん」

ほんの少し触れていた髪から手を下ろし、座席から立ち上がった小さな背中を見送る。
ホームへと降りたアイツの後ろ姿をいつまでも見つめていればドアが閉まる直前アイツは振り向いた。

薄く赤く色付いた頬を緩めて、どこか照れたようにはにかんでアイツは、また明日…と。
そう言った。

再び緩やかに走り出す電車。
約束された明日に、堪らず俺はその名を呼んでいた。

「――ひより」



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